もらとりあむ

だいたいが曖昧、

散文雑文・ドラマの人たちありがとう

少し死にかけていた気持ち。ここ数日で気力が湧いてくるタイミングがあった。それは、美しい人を眺めることだ。例えば、ドラマには眉目秀麗な人たちがたくさん映し出されているのでそれをずっとなんとなく眺めていたら、嘘みたいだが、気が少し紛れている実感を得た。しかも、そのドラマにしっかり没頭していると尚のこと良し。今まで、毎週続くドラマが苦手だった。続きが気になるハラハラした内容やお涙頂戴系のドラマに辟易した結果、ドラマを結局みない選択肢一択になり、暫くバラエティばかり。しかし、いざドラマを拝見するとその美しい人間に釘付けになり、辛い気持ちが緩和されていた。これは割と大発見! 万歳、ビューティフル!・・・

 

ドラマをみるような習慣が付きだした元はと言えば、「大豆田とわ子と〜」がキッカケだ。あんなに毎週同じ時間にテレビの前に行儀よく姿勢を正して心待ちにしていたドラマは始めてだ。暫くロスに見舞われ、その結果新しいクールのドラマも心を紛らわすようにみている延長戦のようなものだ。そうしていたら、なんか気が楽になるようなきっかけに出会えた。嬉しい。ありがとう、ドラマ。

酔いどれが吐き出した唾の透明さに眩む

ずっと聴いている歌がある。これを聴けばもう一度会えるとでも思っているかのように聴いている。懲りなく聴いている。飽きることなく聴き続けている。実際、聴いていれば会えると心のどこかで思っているのだろう。そう思わなければ、やってられない節もある。聴くことによって、会えるんだから。聴くから会えるんようになるんじゃなくて、聴いている間は会えているから聴いてしまうんだと思う。聴いている間は、考えることができる、感じることができる。これはもう麻薬と同じではないか。

私は、このままあとどのくらい聴き続けるのだろう。会えるまで?

こうやって感傷に浸るのが気持ち良くて聴いているのか。なんて恥ずかしくてなんて人間らしいのか、こんなに欲に全うでなんて素晴らしいんだろうか。私はなんて尊いのだろうか。

ひとりでもふたりでも

今年も残すところ僅か半年、半年もないくらいに迫ってきているのか、とても早いな。一年が本当に瞬殺で過ぎていくように感じる二十代後半に差し掛かるとそういうものなのかもしれない。これは二十代後半だけに与えられる特権なのかもしれない、こんな特権いらないし、誰も嬉しくないんだよ。

ここ数日、比較的健康に過ごせていると思っていた。精神的な意味で。精神衛生がかなりいい状態だと自覚をしていた。いたんだけど、まあまあ長い付き合いの友達と連絡が取れなくなった。急にフォローも外されていた。これこそ、やや大げさだが、青天の霹靂ともいうべき衝撃がのしかかって来た。それくらい、まあまあ仲良くしていたつもりだったのだ。その関係性も曖昧ながら、この心の安寧を保っている一部でもあったはずだった。

私は、今年に入ってから、人間関係の身辺整理なるものをしておりこれで3回目くらいだ。2回目までは、自分の意思に沿って施した決断であったわけで、3回目は急に相手から切断を余儀なくされたのである。まあでも、今思い返すと至るところに伏線は張られていたような気もする。

ただ、先ほども申した通り、もう二十代後半にもなったというのに、こんな学生のような人間関係の悩みを抱えていくのはもうこりごりだと強く痛感。これは逆にいい機会だったのかもしれない。相手にとっても、私にとってもいらない縁だったのだ。生きていれば人は成長する、前進する。人によっては、後退することもあるかもしれないが、大半は前に進んでいくので自分の中で色々な変化が訪れるはずなのでこれはいたって普通の出来事だと考えれば、なるほど私も成長しているんだな、発展途中なのだな、と自分を肯定することに徹することが可能である。そうした方が、ずっと精神的に良い。特に私は、舐められやすく、すぐそのことでクヨクヨしてしまうのでこれはいい考え方であると思う。

二十代後半ともなれば、もっと大人だと思ってた、とっくに結婚していると思ってた、他人との距離感が上手くなっていると思っていた、など数年前まで当然と描いていた像には到底追いつけていない。でもみんなだいたい、そうだと思うんだ。

これでも実に客観的に考えることができるようになって来た。

 

ひとりでも大丈夫、ひとりの方が気楽だし精神が落ち着いている。そうは思えど、やはり怖い夢を見たとき、くだらない話を思いついた時、美味しいものを食べた時、隣に伝えられる人間がいたらどんなに救われるだろうと、ひとりの良さも複数人の良さにももれなく、ないものねだりの欲求が覗かせるが、ふたりになってもひとりで生きれるくらい、受け売りだが、強く逞しく生きていたいものだ。

ヘンテコな思想

〜前置き〜

 今日から、初めてみた。ブログ。

せっかく始めるのだから、何か絡めないと書いていて面白くないし、続かないと思うので、【本日の恋人がほしい度数】を軸に毎日を綴り、その気持ちに付随してマッチングアプリを本格的に始めるまでの決意を固める日までをカウントしようと思う。

 

2021年05月24日(月)

  早速だが、今日は既に5月も下旬。月初めには、GWと言う名の大型連休で散々だらけ怠惰な日常の後に、5月病などと揶揄されるなんともかわいそうな月だが、もう終わりを告げようとしている。私はと言うと、特に5月病と思われる症状は未だ発症されていないようだ。

ただ、日々暖かくなる一方だと言うのに、街でくっつくカップルが目につくようになってきた。そんな風景をみていると、なんだか羨ましいと今までは思っていたのだが、今はそうでもない。これを人は表向きだけの様子を感じっとったフリをして、「強がり」などと嗤うのだろう。非常に煩い。放っといてほしい。

 でも、周りにマッチングアプリで出会った人と”イイカンジ”になった人の話を聞くと、どうもこれには羨ましくて震えてしまう。くだらない。

 

 そんなどちらとも言えない感情を日々、無意識にぶら下げながら生きている毎日の積み重ねがある私の本日の度数。

職場にいる唯一の男性にさえ、「この人ともし結婚することになったらどうしよう?どうなるのかな?いける…か?」などと相手からしたらぶっ飛ばしたくもなるような感情すらも引き出してしまった。そのため、

 

【本日の恋人がほしい度数】☆★★★★

 

 初日で既に、ここまできているとなると、アプリに手を出す日も、そう遠くもないかも…?

 

くだらないを追求してみたらどうなるのか・・・。